オバサンの独り言

 

 イスラム教徒である18歳の女子生徒二人がボンの学校に全身を覆うブルカを着て登校したため、2週間の停学処分を受けるという事件があった。ツィプリース連邦法務相が移民の同化問題との関連で制服の導入を提案したことから、制服を巡る論争が活発になっている。

 昔はドイツ人はブランド志向ではなかった。若者はみんな思い思いの服装でファッションを楽しんでいたので、服装で社会的格差が目立つこともなかった。ドイツ人はブランドや流行に惑わされない国民だと感心したものだ。

 ところが、最近はドイツの若者もブランド志向になり、流行に流され易くなった。町を歩いていると、「こんな格好で学校へ行くの?」と聞きたくなるような服装の子供たちをよく見かける。みんな同じブランド品、同じ流行の服では、かえって個性がなくなると思うのだが・・・。

 先日、制服を導入している学校がテレビで紹介されていたが、制服は教師と生徒たちに好評だった。「以前は安い服を着ているとみんなにバカにされたけれど、制服が導入されてからはいやな思いをすることがなくなった」と移民系の男子生徒が語っていた。「ブランド妄想」がエスカレートして 、いじめもあったらしい。教師によると、制服の導入で仲間意識、連帯意識が強まり、学ぶ環境が改善されたという。この学校では、白か紺のポロシャツ、Tシャツ、トレーナーとジーンズを制服にしており、教師と生徒と親が自主的に話し合って決めたそうだ。

 制服といっても、シャツとセーター、トレーナーだけを統一して、ズボンやスカートは自由にするとか、ズボンも色だけ統一するというように、日本の制服のイメージとは異なる。制服の導入も上からの強制ではなく、あくまでも学校と生徒と親の自主的な決定を前提としている。

 一方、教員団体でのインタビューでは、「制服の導入で移民の同化問題を解決することはできない」として、「個性の自由な発展」を抑制する、「自己決定権」に介入する制服の導入に反対する意見が述べられていた。

 ドイツでは、歴史的理由から制服がタブー視されてきた。ナチス時代のヒットラーユーゲントという苦い経験があるからだろう。制服は強制、不寛容、排他のシンボルとされてきたのである。今の若者たちにはこの偏見はなくなったが、制服を「個性の抑圧」と見る傾向は依然として強い。

 OECDのPISA調査でも指摘されているように、ドイツでは社会的格差が生徒の学力に極めて大きな影響を与えている。移民の子供だけでなく、低所得層のドイツ人の子供も学校生活、そして社会から落ちこぼれて孤立する傾向が顕著になっている。

 同じチャンスを与えるべき「同化の場」としての学校が社会的格差に蝕まれているのであれば、制服も社会的格差をなくすための一つの手段かもしれない。もちろん、同化問題は制服の導入だけで解決するような単純な問題ではない。しかし、学校という共同体の中で全員が同じ服を着て勉強することが仲間意識を促し、社会的格差を克服することに貢献するのであれば、制服を検討する価値は大いにあると思う。

 日本では、伝統的な制服のある学校が多い。ドイツとは異なった観点からの制服の問題があると思う。どうして女子の制服はスカートしか認められないのか、どうして堅苦しい詰襟の学生服を着なければならないのか、どうして 真冬でも短いソックスしか認められないのか等など、一方的に押し付けられた制服の不合理な規則に疑問を抱いているのは私だけだろうか。

 日本の若者たちは「押し付けられた制服」 の代わりに「自分達の制服」を考案してみてはどうだろう。 ドイツの若者たちは制服に社会的格差の克服と仲間意識を求めようとしている。日本の若者たちは強制から自主への過程で 、失われてしまった仲間意識を取り戻せるかもしれない。

2006年5月15日)

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