オバサンの独り言

 

 ドイツでも少子高齢化に伴い、家族政策が注目されるようになった。シュレーダー前首相(SPD)は家族政策を軽視していたが、メルケル首相は先見の明があったのか、女性の勘だったのか、社会民主党(SPD)との大連立政権下の連邦家族・高齢者・女性・青少年大臣を自らの党(キリスト教民主同盟CDU)から出した。家族政策をCDUの管轄下に置いたのである。

メルケル首相の期待に添うかのように、フォン・デア・ライエン連邦家族相は保守党CDU/CSUの従来の家族政策とは異なる大胆な政策を立て続けに打ち出して、家族政策を重大な国家政策に格上げさせた。

 元々、連邦家族大臣という職は、女性を入閣させて、進歩的なところをアピールするために男性中心の内閣に飾る花のような存在だった。閣議でも家族相が発言する機会は少なく、重視されていなかったようである。ちなみに、東西ドイツ統一後にCDUに入党したメルケル首相が当時のコール首相に抜擢されて就いた職は連邦女性・青少年大臣(1991年〜1994年)だった。

 ところが、メルケル首相という力強い後援者を控えるフォン・デア・ライエン家族相はSPDのお株を奪うような政策を提案して、保守党だけでなく、SPDも慌てさせている。激しい論争をもたらし、家族政策への注目度を一気に高めた「父母手当」の導入を果たした後、今度は3歳未満の幼児のための保育所の増設計画を提案した。2013年までに約75万人の幼児が保育所に通えるようにするという、財務相をびっくりさせるようなお金のかかる政策をあのニコニコ笑顔で発表したのである。

 「母親による育児に優るものはない」という教会的価値観の強い保守的な政治家は革新的な家族相に強い反感を示している。その代弁をするかのように、アウグスブルクのミクサ司教が、「生後まもない子供を国の保育機関に預けるように、国の政策で母親を誘導する者は、女性を「子供を産む機械(Gebärmaschine)」に格下げする」と、家族相の政策を批判する挑発的な発言をしたことから、活発な育児論争が始まった。

 ミクサ司教は連邦政府の家族政策を「社会政策上のスキャンダル」と批判しているが、彼の発言こそがスキャンダルなのではあるまいか。どこかの国の厚生労働相が女性を「子供を産む機械」とする発言をしたのと時を同じくしているのは何とも興味深い。現代社会の急速な変化に対応する未来志向の家族政策についていけない人達の「本音」なのだろう。

 「本当の育児のプロは両親、特に母親だ」という考え方はミクサ司教だけでなく、教会や保守党の政治家にも見られる。しかし、近年増加している児童虐待や親の責任放棄などを考えると、首を傾げたくなる。核家族化した社会で は、育児の知識も経験もない若い母親が育児ノイローゼになるケースが多い。育児を母親だけに押し付けることが子供の幸せなのかどうか、司教に聞いてみたいものである。

 保育所に賛成する人も反対する人も「選択の自由」を主張する。しかし 、「選択の自由」には選択肢がなければならない。フランスなどの家族政策先進国に比べ、ドイツ、特に旧西独には保育所が極めて少ない。 保育所という選択肢がないために仕事を断念しなければならない母親のなんと多いことか。育児休業後の職場復帰が困難なために、仕事を諦めなければならない母親が多いのが現実である。

まずは、選択肢としての保育サービスの提供を拡充し、育児休業後のスムーズな職場復帰の環境を整備 することが「選択の自由」の前提であろう。「選択の自由」は、主婦/主夫を過小評価するもので はないし、職業をもつ母親/父親に負い目を負わせるものでもない。重要なのは、子供が幸せに育つ環境を提供することである。

 女性の大学進学率が男性を上回り、社会進出が自明のことになった。まだまだ昇進における男女の格差は大きいが、女性にもチャンスが与えられるようになってきた。少子高齢化社会では、「仕事か家庭かの二者択一」ではなく、「仕事と家庭の両立」こそが家族政策の課題である。

 「父親は仕事、母親は家庭」という神聖化された理想像はもはやノスタルジーに過ぎない。

2007年3月12日)

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